2016年11月16日水曜日

意念の開合

太極拳は別名開合拳と言われている。これはどういう事かと言えば意念の開合を意味する。意念の開合がその勁に作用するのです。意を開く時は外に働く力が出てくるし、意を閉じれば集中した勁が出てくるようになる。これを意図的に多く使い身体を開発しようとする意図が陳式心意混元太極拳には多く入っています。 これはなかなか理解しがたい処ですが、ある程度太極拳の套路を練れて来たら、各招式毎に検証してみるのも良いでしょう。通常の勁に加え意念の開合が加わった時にどのように力が違ってくるか。その違いに驚かれる事でしょう。 これも混元太極拳の仕掛けの一つと言えるでしょう。

2016年11月14日月曜日

太極指玄功

太極師指玄功とはこちらの指で相手の意を捉え相手に触れずに相手を動かす功法です。この功法は陳式太極拳に伝わる一つの功法です。指はあくまでも補助として使いますが、相手に触れずに相手を動かす事ができます。但し、こちらが相手の意念を感じ取る力と、自身の強い意念が必要です。最近行った実験では30m離れた処であっても相手を動かす事ができる事が確認されました。これも以前述べた陳式太極拳の套路の打ち方を意識して行えば誰でもできるものです。当太極会では意念だけで相手を動かす練習をしており、皆意念で相手を動かす事ができますが、距離が遠く離れた処から相手を動かすには一定の功夫が必要です。

2016年11月13日日曜日

陳発科に伝わる陳式太極拳2

先に陳発科に伝わる陳式太極拳でその他の陳式太極拳との違いを簡単に述べてみました。そこで書いた内容は馮志強老師からお聞きした陳発科老師の拳なので、間違いでは無いと思っています。 今日は小生が北京陳式の大会を見てその他の陳式太極拳と違うと思った点をあげてみたいと思います。これは陳発科老師が言われたかどうかは分からないので偶然の一致かも分かりません。北京陳式とは陳発科老師の弟子や孫弟子が集まって北京で開いていた大会です。 ここで見た套路の打ち方とその他の陳式太極拳の打ち方で一番大きな違いは首を振るか振らないかでした。 北京陳式の大会で打っている套路では首を振る人を見かけませんでしたが、その他の陳式太極拳では首を振る人を多く見かけた事でした。これは陳発科老師が首を振るなと言われたかどうかは定かではありませんが、多分陳発科老師は首を振らなかったのではないかと推測されます。馮志強老師がお亡くなりになった今となっては確かめる術はありませんが、、、。

捨自従人という事

太極拳のなんたるかを示した太極拳経に「捨自従人」という言葉があります。この捨自従人は一般的には字の通り自分を捨てて相手に従う事と了解されています。 これはあくまで動きがそうであるという事よりも深い意味を持っています。即ち動きだけで相手に従っていても自分の我が出ていたり、意念が出ていたりすれば捨自従人の狙いを全て満たしている訳ではありません。 例えば動きを相手に従うようにしてもいつでも反撃しようという気持ちがあれば逆に相手に崩されてしまう事になります。自分を捨てるという事は自分から意念を出す事なく相手に従っていくという事です。そうすれば相手の意念が出てくるようすが良く分かります。それを捉えます。その捉え方も無理の無い捉え方をします。即ち意が出てくるという事は気も出てきます。その全体の流れを把握して流れに沿った方向で流してあげると相手が崩れる事になります。即ち捨自従人は相手の意念を捉えるレーダーを敏感にするという意味もあるという事です。最初から最後まで相手の意の流れを捉えそれに従って流していけば一連の気の流れが出来、容易に相手を崩せる事になるのです。

2016年11月12日土曜日

陳発科老師と功夫架

陳式太極拳には功夫架という低架式で練る方法が伝えられており、陳照奎老師も陳発科老師より功夫架で鍛えられたと伝えられています。但し、晩年の陳発科老師は功夫架を否定しておられ、足は円を描くようにするよう指導されていたと聞いています。この理由はあまりに低架式の場合足が円弧を描かず気が通りにくいとの事です。もう一つの理由は膝を痛め易いとの事です。
ある時陳照奎老師の弟子にあたる馬虹老師の生徒が表演が終わって馮老師にコメントを求められた時馮老師はこの話をされたそうです。
混元太極拳の改良と一つのポイントは気の流れとの事で、陳発科老師は気の流れを考えて陳式太極拳の套路を改変されたと聞いています。

2016年11月11日金曜日

推手の練習方法2 2016年11月15日更新

推手の練習方法は先のブログで書きましたが、もう少し突っ込んで説明したいと思います。
ここで太極拳経に戻って太極を定義してみたいと思います。
「太極は無極から生じ動静の機、陰陽の母なり」
これはどういった事かというと動静が生じる前、陰陽が生じる前のその機を含んだ状態を言います。 ではこの動静は何を指すのか? 相手が動く前なのか? これは心が陰陽に分かれ、意が陰陽に分かれ、身体が陰陽に分かれる事を前提とすれば心が動きそうになった処を指しているのです。心が陰陽に分かれる前、ここが太極ですが、これを押さえる、掴む事が非常に大事です。
まずは自分が全ての念を落として無極となる事が必要です。この状態になれば相手に太極が生じた事が良く見えるのです。なぜなら自分の念を落とし無極に立てば相手も自分も一体である感覚、もっと言えば周囲の場とも一体の感覚を得る事が出来ます。この状態で相手の何かが動けば、相手の心も含め自分の身体の中の事のように明確に捉える事が出来ます。
では次の段階、相手の心が動き、意が動き、身体が動いた時にどのように対応して行けば良いか? 既に心が動いた状態で相手を捉えており、どういった動きにでるかは予測できます。しかし相手が動いても、こちらは心や意を動かしてはダメです。特に相手の動きに意を固着させるとうまくいきません。相手が動いてもあくまでも自分を捨てて相手に従うように相手に合わせていき、こちらの意は相手の全てを捉えていると相手を崩す事が可能です。これがいわゆる「捨自従人」(自分を捨てて相手に従う)です。私もいつも出来ている訳ではありませんが、このように練習していけば太極を把握でき、崩される事は無くなるでしょう。というか「後の先」を取る事が可能となってきます。
又散手になった時でも心の動きが捉えられ遅れをとる事はなくなります。本当に力量がある外家拳の使い手の場合拳が見えない事もあります。小生は極真会芦原道場、芦原会館に身を置いて芦原先生を身近に見てきました。時々今何発拳を出したか聞かれるのですが、あまりにも拳が早く見えない事がありました。このような素早い拳の場合相手が動いてからこちらが動いても到底間に合いません。従いオシクラ饅頭の推手をいくらやっても全く役に立ちません。馮志強老師の推手はいつも相手が動く前を捉えられておられました。 ある時小生が推手でなかなか歯が立たない劉師兄が、偶々馮老師が通りかかったので推手をお願いしました。殆どお願いしますと言い終わらないうちに崩されていました。これでこそ散手(組手)に使える推手となるのです。
又ある時陳発科老師にある外家拳の使い手が試合を申し込んできました。発科老師は断ったのに執拗に試合を迫り、自宅まで付いてきました。仕方なく発科老師は同挑戦者と立ち合い家から放り出したという事です。 馮志強老師はその時陳発科老師の書生をしていましたが、陳発科老師は馮老師に今来た外家拳の使い手の拳は非常に速かったがそれは怖れる事では無いと言われました。この意味は上記を読まれた方はお分かりでしょう。

套路の打ち方

套路の打ち方も各派色々あるでしょう。 ここでは陳式嫡流の陳発科直伝の套路の打ち方(
日本では型を行う事を中国では套路を打つといいます)の触りを以下述べる事にします。
まず陳発科老師は套路を技を組み合わせた運動だけとは捉えていませんでした。要は陳式太極拳を打つ身体と意念の開発を套路の目的と考えていたのです。技を習得する運動の側面も無い訳ではありませんが、その位置づけは然程高くは無いという事です。

第一は意の運動という側面です。要は意で套路を打つ為、意がどんどん強くなって行く訳です。太極拳は「用意、不用力」といわれ意念が大事です。陳発科老師も馮志強老師も北京ではその功夫を知らないものはいない人物として知られていましたが、陳発科老師は千頭の象は倒せないと言われており、功夫だけでは無い意念等を重視して套路を打っておられたという事です。太極拳は連綿不断と言われますが、このように意を連綿不断に用いて套路を練る事が重要です。

第二は身体の開発という側面です。内勁を練るという事です。取り分け纏糸勁と混元球を練る事が大事です。まずは外から中を練り、次は中から外を主導する事です。どういう事かと言いますとまずは套路を練り込んでいきますと徐々に中が出来てきます。中とは内気と勁道の事です。中が別の生き物のようになってくると、今度は中を動かす事により、その力が外に現れてくる事になります。特に混元太極拳は多くの纏糸内功を含んでいますので、纏糸勁が練られる事になり、自然と纏糸勁ができるのです。

第三は気の運動という側面です。これは意が動く為、自然とそれに伴って気も動く事となります。「意到気到」と言われているのであくまでこれは意の運動の結果です。従い、これに特に注意を注ぐ必要はありません。ただここでこの内気の練りかたには陳式太極拳には一つの密伝があります。

第四に技の側面です。

上記が一般的な套路の練り方になります。又所謂発勁を伴う套路である二路は炮捶(ほうずい)と言われていますが、この練り方にも陳式太極拳の密伝があり、馮志強老師も陳発科老師より伝えられた密伝に従って二路を練られたそうです。ある時公園で馮老師と二路を練っていた時、陳式の他流派の方が通りがかった時にサッと二路を打つ事を止めたのには驚きましたが、これも流派の密伝を守る為の行動と理解されます。

太極の掴み方

太極拳はまずは太極を把握する事が重要です。
推手はそれを把握する為のものだと言いましたが、それには下準備が必要です。
どういった下準備かというと心を無にするという下準備です。 相手の心が陰陽に分かれる前に把握するには相手の心が手にとるように分かる事が必須です。相手の心が分かるには自分が念を出さず、一切の念を捨て去る事が肝要です。それには站椿功の際に意念を丹田に集中する事によって一切の雑念を捨てるのです。それでも念は出てきますが、これは吐く息と共に捨て去るのです。 太極混元内功は動功と静功を繰り返し行いますが、正にこれは静功の集中力を上げる事ができます。ただ静功だけを行った場合は一旦念が出始めるとなかなか止めるのは難しいですが、動功から静功に移るときは殆どの人が念を出さずに集中できるように出来ています。このようにして下準備が整えば太極の把握は容易になるでしょう。当会では站椿の最中に私が各人の前に立ち、意念で相手の丹田の気を引出します。引き出された人は前によろけるように動きます。しかし、もし丹田に意識が集中していて雑念が出ていないなら気を引き出される事がなく、前によろけるように出てくる事はありません。

2016年11月10日木曜日

推手の練習方法

推手の練習方法と目的について述べてみたい。

推手は手が触れ合う事から皮膚から多くの情報を得る。 この情報を基に力を使う事なく相手の力を無力化する事(これを化、中国語の発音はファー)を目的とする。力を使わない事によって徐々に感覚が鋭敏になってくる為、僅かな動きでも察知できるようになる。 相手の勁を聴く事からこれを聴勁といいます。

第二段階としては勁が出る前にさかのぼって意が出る時を捉えるようにしていきます。。通常人は心が動き、意が動き、身体が動くという順になっている。第一段階では身体が動くとそれを察知するが、第二段階では意が動いたらそれを察知して対応する。この段階では心や意が動いた事が分かってもこちらの対応が遅れ結局は相手の身体が動いてから対応する事もあるが、その場合でも上記第一段階よりも早く相手の動きを察知しているので余裕を持ってさばけるようになる。この場合こちらの手で相手の手をさばく事になるが、こちらの意を触れている部分に持っていかず、常に全体を捉えている事が肝要です。又うまくいって意が出てきた段階でこちらの意でさばければこちらは殆ど力を使う必要が無い。

第三段階としては相手の心が動くか動かない所で察知する。即ち陰陽が分かれる前ではあるが、陰陽が分かれるその機を含む状況、これ即ち太極である。 これを把握する事が求められる。
そうすれば常に後の先を取れるのである。この第三段階を経て組手(散手)に入っていく次第です。この太極の把握に関しては項を改めてもう少し詳細に述べてみたい。

このようにして推手を散手の前段階の練習として位置づけ練っていくものです。
従い、もしこの推手を試合として行った場合、こちらも相手を倒そうと意が出てくる事になりますが、そうした場合もし相手が心を澄ましこちらの意を捉えようとした場合負ける事を意味します。従い、試合として筋トレをして相手を倒しても全く意味がありません。散手となれば一発で倒される事でしょう。あくまで太極を掴む事が推手の目的です。従い、勝とうとしない事が非常に大事でそうすれば相手の太極が掴み易くなります。結果として勝ったとしてもその勝ち方が重要になります。太極を掴んで勝ったのかどうかが問われるのです。

私が馮志強老師に太極拳で強くなるにはどうしたら良いかと、ある時にお聞きした事があります。
その時の回答は散手をやる必要がある。散手は千変万化であると。但し、その前に十分推手を行う必要があると言われました。この意味は今では皆さんもお分かりですね。上記のように散手の準備としての推手をやれという意味でした。推手が目的の推手では全く意味がありません。
当会では推手を攻める側と守る側に分けた推手もしています。但し、守る側は相手が攻めてきた瞬間だけは攻めても良いというルールで練習しています。そうすれば守る側は心を静かに研ぎ澄まし、相手と一体とならなければ太極が掴めない訳です。これを自由推手の前段階と位置づけ練習する事によって誰もが太極を掴む事に専念できる訳です。