2003年11月14日金曜日

内功と套路に関して

 套路と内功に関して少し述べてみたいと思います。

 套路だけを練って居られる方はこれも内功と言われる人に出会いますが、これは間違いではないのです。套路も正しく練ると内功なのです。ではどうして陳発科老師から馮老師に伝わる太極拳では内功を強調しているのでしょうか?私の全くの私見ですが理由は2つあると思います。
  1. 焚き火の最初の火をつける役割
     混元気(内気)を得る事は非常に大事です。これが無ければ中身の無い太極ダンスとなりますが、この太極拳となっている方が非常に多いのが残念ながら現実です。最初に少しの混元気を得れば、套路をしても相乗効果が出てきて、ますます混元気が大きくなっていきますが、この最初の混元気を得る事が非常に難しいし、長い時間が掛かるのです。この点混元内功を練ると、この混元気を早く獲得できるのです。凡そ1-2年で自分で変化を感じられるくらいになります。そうなってくれば套路にも重さがでてきますし、威力も出てきます。もちろん内気があるので健康にも良い影響が出てきます。これは正に火がつきにくい焚き火で最初の火を付ける役割と似ています。最初は火がつきにくいものです。ここで止めてしまう人が非常に多いのと火が付いていない事に気づかずに続けている人も多いのです。
  2. 混元気を増加させる役割
     混元気を増大させる役割があります。この効果は套路でもありますが内功の場合その効果は一層大きいという事が言えます。これは馮老師の元々の内弟子は最初内功しかやりませんでしたが、套路を併用している人と比べても功夫が早く上がっているのを見ても分かります。
此れほど良い効果がある内功ですが、問題はあるのでしょうか?そうです一つあるとすれば動きが単調なので長年やっていると飽きやすいという事が言えます。2-3年もやっていると飽きてくるでしょう。これを克服して続けるのはちょっとした忍耐力がいるかもしれません。

2003年4月18日金曜日

失伝に関して

 今日は失伝に関して私が馮老師から聞いた話を元に話たいと思います。これはある時馮老師との練習の後、話題が胡耀貞老師の話になった時の事です。馮老師はいつも胡耀貞老師の事を神だと絶賛されますが、その時も胡老師を絶賛されていました。その流れの中で胡老師の功法に付いて言及されました。胡老師は本当に多くの功法をお持ちだったと言われていました。自分は胡老師から多くの功法を学んだ。自分が弟子の中でも一番多くを学んだと思う。でも自分が学んだ功法は胡老師の功法の約30%くらいだったと。即ち70%くらいは失伝したとの事でした。では他のお弟子さんは大体どのくらいの功法を学ばれたのですか?と質問すると約10%くらいだと思うと言われていました。成る程、流派ができる一方で、失伝もこのように生じているのかと感慨を新たにしました。最初は馮老師は胡老師の全てを継いだものとばかり思っていた私は胡老師の高い境涯に思いを致すと共に、馮老師でも胡老師に師事している間には胡老師のレベルには未だ距離があったのかと思ってしまいました。通常馮老師の教え方は学生があるレベルに達するとそのレベルに合ったものを教えるという具合に段階を踏んで教えていきます。これは当たり前と言えば当たり前ですが、馮老師もそのように胡老師から学んだものと推測されます。従い、馮老師も当時の胡老師のレベルから見れば未だ未だだったのかも知れません。ですからその時点で胡老師の全ての功法が学べなかったのでしょう。もう一つの解釈は他の功法があまり重要でなかった事も考えられますが、胡老師が色々な功法を持っておられた事を馮老師が知っていた事からも他の功法が無用ではなかったと思えます。この話を聞くまでは失伝というのは後を継ぐ人がいなかったから起こるものと思っていましたが、そうではなく師事している期間に師のレベルに達しないから起こるものも多いのかなと思い始めました。師はいつまでも自分の傍にいるわけではありません。偶々、何かの縁で知り合い、ある時間を一緒に過ごすだけなのです。その意味でも良い師に会ったならその時間を惜しむように練習し、自分のレベルを上げて師から多くを学ばねば失伝は起こるという事だと思います。もっとも馮老師の場合は練習を怠ったものではなく、胡老師が突然居なくなった事により、胡老師から学べなくなったのです。胡老師はある時文化大革命が起こる事を予知し、その話を馮老師にされ、自分は田舎に行って暮らすと言われ突然居なくなったとの事です。

2003年3月22日土曜日

「漂(piao)」と「沈(chen)」

 太極拳では身体がふわふわと浮いた状態を「漂」と言います。「漂」の状態の場合、太極拳では「花架子」または「花拳繍腿」と言って要はカッコばかりで力が無いと言う意味で、これらの状態を嫌います。この「漂」の状態の場合、推手等でも簡単に飛ばされるでしょう。一方、時々有名な太極拳の先生が多くの人に押されても動かないというような映像を見た事があると思いますが、これは正に「沈」(正しくはこの漢字ではありません)の状態と言えるでしょう。これは少し触らせて貰えば分かりますが、非常に重たい状態にあります。このように功夫が出てくると「沈」の状態になってきます。こうなれば相手を崩すのも比較的容易になります。私も最初の頃この差に驚きました。この違いはどこにあるかと言えば、混元気(内気)の差にあると思われます。混元気が出てくると套路も重くなり威力も出てきます。ではどのようにして混元気を獲得するのでしょう。タントウ、套路、等色々な練習が混元気の養成に役立っています。然しながらこれらに内功を加えると格段に混元気の養成が速くなります。混元気の養成に重要な事は「松(ソン)」です。私の最初の師である朱老師はほんの数年で凄い功夫を得た人ですが、老師の套路は非常に滑らかで、且つ「松」となっています。こんなんで良いのかなと思える套路ですが、朱老師は種々思考錯誤の上たどり着いた結論との事でした。殆どプラプラやっているようですが、滅茶苦茶重そうにも見えます。本人は全然疲れないし、気持ちが良く、且つ功夫も非常に速く上がるので、馮老師の太極拳とは見た目は違いますがこれで行こうと思われているようです。馮老師の套路も表演の時は別として、我々との練習の時は非常に滑らかで楊式太極拳かと思える柔らかさです。内功以外にポイントは「松」が上げられる事は皆さんもお分かり頂けたと思います。功夫と太極の哲理を求める太極拳これが私の目指す太極拳です。なかなか道は長そうですが、奥が深く、やりがいがありそうです。