2002年12月14日土曜日

馮式太極拳と言われるが

 最近馮老師は46式等の套路を編纂されたが、その中に通ヒ等の技が入っており、ここまで来れば馮式太極拳だと言う声が聞こえてきます。その考えも分からないではありませんが、最近太極拳とは何かと考えるに技によってのみ規定されるのではないかと考えています。私も含めて多くの日本人の練習者はどんな技があって、どういう風に使うのかに多くの関心がいっているように思います。これは太極拳の技、これはXX拳の技といった具合です。然しながらこの考えはあまり当たらないのではないかと最近考えるようになってきました。これはどう言った事かというと、太極拳は一定の功夫の基礎の元、太極の哲理に則って技を載せていく、使っていくという事ではないでしょうか。例えば同じ技でも太極拳の哲理に則って使い、太極拳の勁の出し方で用いれば太極拳の技と言えるのではと思います。技は重要には違いないですが、もっと大事なのは『功』と太極拳の哲理の体現ではないでしょうか。私は以前空手をやっていましたが、今空手の技を使っても太極拳の技として蘇ってくると思われます。それは陰陽、虚実は常に意識されますし、勁の出し方も太極拳風になります。この技が載っているベースが非常に大事でこれを身に着ける事に注力すべきだと考えます。その後色々な技を覚えても、そのベースがしっかりしている(太極拳風になっている)と太極拳の技として出てくるのだと思います。太極拳のoriginalの技も長拳等の影響を受けていると思われますし、多くの拳の影響をうけている事は間違いなさそうです。その意味で太極拳の核心を求めるとすれば技の占める割合よりも太極の哲理の体現、功(練習による力)等の方が重要なのではと思います。ここで重要な落とし穴があります。小生のようなフルコンの空手から太極拳に転身して来た者にとって太極拳をやっている人は理屈をいう人が多いという気がしています。といっても小生がお会いするのは中国人が多いのですが。それは太極拳のバックにある太極の哲理のせいでしょう。多くの太極拳修練者は太極拳の哲理等を語っているのです。でも実際に手を合わせると理屈程でもないという人が多いのも事実です。これはどういう事かと言うと哲理を書いた本は多くあります。又単に套路の順番、解説に終始した本もあります。然しながら練習の方法を書いた本は少ないのです。これは非常に意外な事ですが事実でしょう。太極の高みにいく方法が抜けているのも通常の分野では珍しい事です。これは太極拳の練習が伝統太極拳の間で秘伝となってきた為か、もしくは日本で習う人の多くが太極拳の練習は套路を規定通り行う事という潜入概念がある為それ以外の方法を受け付けないのか、あるいはその両方かです。実際驚くのは太極拳の教室で套路をやらないと練習生があまり興味を示さないという話を聞いた事もあります。套路を練習しにきたのか太極拳を練習しにきたのかわからない状態です。もちろん套路は太極拳の重要な一部ではありますが、練習方法を生徒が決めるのも変な話です。ここにも練習方法の軽視が見られます。しかしこれが一番重要といっても過言ではありません。その意味でも中味のある太極拳を知っている先生に会われたなら、先生の言われる通り練習する事が重要です。